ネットとリアルのあいだ

まず最初の感想は、本のタイトルと中身が合っていないような気がする、ということ。
読む前は、「ネットに没頭する若者がいっぱいで日本やばい」とか、「ネットユーザーと非ユーザーの間の乖離が進んで日本やばい」とかそういった事が書いてあるんじゃないかと少し心配してたんだけどそんなことはなかった。
(じゃあなぜ買ったと言われると困るけれども)

要旨

現代の社会では、人々の「私(自己)というリアル」が崩壊している。
リアルの崩壊をわかりやすく「自信喪失」と捉えることもできる。
それは人々が社会というメガマシンの中で「情報処理単位」になってしまっているためである。
しかし人間は機械とは違う。人間には「心」があり、また「心」は独立ではなく「身体」があって成立している。
人の心は他の身体を持つものと「共感」する能力を持っているので、この点に注目した(今までの機械的な「情報」と異なる)新たな情報の学問を考える必要がある。
21世紀は「情報」を軸に物事が大きく動いていくのだが、この「情報」が「機械的な情報」ではいけない。
「情報」とは生命と不可分のものであり、「機械的な情報=情報」でなく、「生命情報」を軸に動いていくべきである。

感想

この本に多く見られたのが、「二項対立」だった。
右脳⇔左脳
言語的自己⇔身体的自己
こころ⇔からだ
機械情報⇔生命情報
など。
これらの一方が偏重、もしくは独立に考えられていることが
現代社会の問題とされている。
例えば論理的思考を担っているとされる「左脳」が(人間が社会生活を営む上で)正常にはたらくには「右脳」が必要であるし、
心(感情)は身体とは独立ではない。

上で書いたように、最初は(大変失礼ながら)こんな文章とは思わずに買った。
大雑把に言ってしまえば「ネットとリアルのあいだ」というよりは「じぶん・この不思議な存在」を読んでいるのに近い印象。
ドトールで読んでたけど思わず「鷲田か!」と言いそうになった。言ってないけど。
じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

本文の最後は

身体性とコミュニティの回復が、情報社会の未来をひらくのである。

と締めくくられていることからも、やはり
「ネットとリアルのあいだ」というタイトルとはズレを感じる。(大事なことなので何回も言っています。)
むしろサブタイトルである「生きるための情報学」のほうが合っているような・・・

サブタイトルの【情報学】というように、
本文中ではシャノンやアラン・チューリングフォン・ノイマンらの名にお目にかかった。
「情報」や「情報量」が機械的な「情報」の送受信について述べられていたのに、いつの間にか人々に「意思の伝達」にすり替えられてしまった、と本文中では述べられている。

正直もう一度ちゃんと勉強して読んだほうがなお理解できると思うのであまり深くは書けない・・・

情報量やらチューリングマシンやらについてはある程度知っていたのでふむふむと読み進めていけたが、
この辺の説明はあまり丁寧では無かった。当然だろうけど。
逆に哲学や倫理学方面のワードや人などなどはよく分からないまま読んだのでこの辺少し勉強してみたい。
こういったことを受けて、「専門外の知識も幅広く必要だなー」なんて月並みなことを考えていたら、
著者の紹介の欄に「理系の知と文系の知を架橋する新しい情報学の構築をめざし続けている」と書いてあって納得。